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カウンセラーの対談「第26回 井上祐紀氏、新倉カウンセラー対談<第3回>」
第26回 井上祐紀氏、新倉カウンセラー対談<第3回>
井上祐紀 プロフィール
児童精神科医 精神保健指定医 医学博士
現職:国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所知的障害研究部 客員研究員、島田療育センターはちおうじ 診療科長
平成10年岐阜大学医学部卒、同年国立国際医療センター内科研修医、平成12年福島県立医科大学神経精神科診療医、平成17年国立精神・神経センター精神保健研究所知的障害部流動研究員、平成20年同診断研究室長、平成23年4月より現職。
主な研究テーマ:
*AD/HDの神経生理学的病態研究
*AD/HDの臨床評価尺度の標準化
*発達障害児の家族支援
*発達障害児の認知行動療法
インタビュー第3回
新倉カウンセラー(以下 新倉):個人ではなくてグループに対してですか?
井上祐紀(以下 井上):はい、うちのクラスではこういうことちょっと頑張ろうよとか、これだけは許しませんとか、プランABCを上手に使いわけていくこと。グループに対して共通のものがあってもいいのかもしれないし、あとは、○○君はいつも休み時間になるとちょっとイライラしやすいよねとか、これを上手くいくようにするためにはみんなでどうして行ったらよいかとか、学級会としてプランBを深めていく。「いけないことはいけないと思います!」という子供もいるだろうし、なかには「こいつもうダメだよ〜、放っておくしかないよ〜」とプランCを思い浮かべている子もいると思います。でもやっぱりクラス運営の中で、集団、まだ実現していないんですけれど、自分がやっている支援をもう少し深めていったら何か集団、クラスの運営にも役立つような支援ができないかな?と。これは療育センターに来ていないお子さんも含めて色々と微妙な事情を含むんですけれども、やっぱり対象となるお子さんがいて、そのお子さんたちに誰がどんな風にかかわっているのかクラスの中の集団力動図を一緒に書きながら、先生たちの悩みをサポートしていけるというか解決していけるようなところまでいくと何か少し変わるかなと。
新倉:そういうプランが実現したらかなり教育現場も助かると思います。ADHDのお子さんの話しに終始してしまいましが、学校現場で思うのは、ADHD児は目立つのでケアーされやすいけれど、LD(学習障害)のお子さんで問題行動もなく大人しい児童は埋もれちゃっている。担任も問題行動の子供の対応で手一杯なので、そういうお子さんは気づかれにくい。公立では担任制は長くても二年。気付かれないままで終わるか、薄々気づいていても何も介入しないで次の担任へ行くことが多い。その結果、5年生になっても名前が漢字で書けないとか、アナログの時計が読めないとか、そういう子供たちがポロポロと出てくる。親御さんも歴代の担任から、やんわりと学習面での弱さを指摘されているのだと思いますが、うちの子は勉強が苦手だから程度の受け止め。その子はというと、クラスの授業に全くついていけなくて、やっているふりをしてやり過ごさなければならない。かなり苦痛だと思います。そういうお子さんって学校では発見されにくいと思うのですが、療育センターの方にLDのお子さん、あるいはLD疑いのお子さんを連れてくる保護者の方っていらっしゃいますか?
井上:やっぱり保護者さんたちの気付き、アウェアニスはすごく高まっているので学習の問題に関してはかなり親御さんは気づきやすい状態になってきたなという感じはします。でも、やっぱり相変わらず、僕ら児童精神科ですから精神科という所に来るのはかなり問題行動が激しいお子さんが中心になっています。でも、結局この子が授業中に大変なことになってしまうのは、やっぱり背景には学習の困難さ、音読したってうまくいかないやという、そういう自分のもろもろの苦手な活動のときには過敏性や攻撃性が増してしまったりすることはあると思うんですよね。やっぱり、この学習障害の問題というのは、実はこれ問題行動と違ってなかなか手つかずのまんまだと思います。ただうちではそれなりの評価はします。最近は読むことの障害、読字障害の検査が保険適応が通って少し定量的に何年生だったらどれくらいのスピードで文字が読めるのかということが段々標準データが出てくるような検査が随分開発されてきているので、まずそういう所で拾いあげていくということはやっています。
新倉:保険適応は大きいですね。学校で面談した保護者へは、疑いがあって一度発達検査を受けたほうが良い場合は市町村の教育センターへリファーして検査を取ってもらうことも多いですが、所見欄には「学習障害」という見立ては出てきません。○○さんは、こういうことが苦手です・・・という言い回し(笑)。
井上:僕は学習障害か、これは学習困難だなと思うケースがあるんですね。学習困難な子供たちは低学年のときに明らかな読み書きの障害はやっぱりない、音読もそれなりに出来ているんだけれど、応用、文章読解になったときに難しいとか、やっぱり高学年から徐々に学習の到達度に問題が出てくる。むしろ読み書き障害とか、学習障害っていうのは少し知的な部分の遅れが関連しているかもしれないようなお子さんたち、むしろ知的な遅れは関係ないかもしれないけれど、やはり応用部的な学習が苦手でいやけがさしてしまうケース。一番重たくて大変なのは、読み書きの基礎からしてかなり難しい。文字を見たときにそれを音に変換するという所謂、デコーディングとよばれる脳の処理が本当に時間がかかってしまって、こういった子たちがなかなか発見されないまま小学校を卒業して中学に行ってあっというまに適応の問題を起こしてしまうケースが多いので、なかなか建前的には特別支援教育の中に学習障害が入っていますけれど、特にその通級学級なり支援学級なりで明らかに基礎的な学習の問題を持っているお子さんにどうやって教育していくのか教育現場では全く方法論が確立されていない。基礎的な読み書きがOKで、応用的な学習の難しさがある子たちへは期待を下げてあげるということです。
新倉:例えば5年生だけれど3年生のドリルをやるとか、気の利く先生は、別のプリントを配ってやらせたりしています。それが差別になるのでは?本人の自尊心を下げてしまうのでは?と思われる先生もいますけれど、何の前振りもなく唐突に3年生のプリントを配るのではなくて、その子ときちんと話しをして、つまずいている所からやろうね、という姿勢があればそれはそれでいいのかなと。
井上:読み書きの障害の子たちは、支援がない環境では本当につみあがらないので普通のやり方をやっていてもダメなんですね。もっとわりきるところはわりきって、いやこの子にはいったん書くことを後回しにしようとかね。読める文字を増やそうとか、どうしてもアウトプットするときはパソコンを使って変換させるとか。もうそういうツールを使って補う形の学習スタイルに移行していかざるを得ない。どこかの段階でスムーズに音読をすることとか、きれいに文字を書くことにこだわりすぎると、もう同じ時間を使って少しでも読める単語を増やしてしまったほうが将来的にその子はきちんとかかれたものを理解するっていうことが少しでも担保できるような支援法のほうがいいかなと。ですから、本物の学習障害に対する支援法を緊急で少しどうするか、まして通常学級でどうするのかということはほんとうに方法論が確立されていません。
新倉:先生は初回では診断はしない場合が多いということですが、診断をされたときに、例えば発達障害のように○○障害とつくと、親御さんは自分の子供に「障害」という言葉がつくことに対して非常に抵抗を示しませんか?みんな自分の子供が"ふつう"いわゆる定型発達であって欲しいと願っています。ただ、親御さんの診断に対する受容がないときに、「うちの子は問題ありません」となってしまうと、本来であれば子供が受けられる支援が受けられなくなってしまう。例えば特別支援は、保護者の申請がないと出来ないわけですが、親の事情、親が世間体を気にするあまりにその子供は支援を受けられずに通常級に放置されたままになってしまう。IQも全検査50ちょっとで知的固定級判定が出ていても普通級に通わせてしまう。そういう親御さんと話をしていると、子供のベネフィットが一番ではなくて親の利得が優先されていて難儀だな〜と感じることがありますが、先生はそういう親御さんに対してどのように対応されるのですか?
井上:そうですね・・・親に医学モデルを飲み込ませないと支援が進まないとは思っていまないんですよ。だから逆にどうにも診断名がつきそうにない子がいますよね、その結果特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS)みたいな診断を与えることによって、その診断をどうやったら理解できるんですか?という方向に行ってしまって、益々先ほど言った子供の懸念を理解するとことから離れてしまう。だから、子供の発達障害の診断なんてものは、発達の特性や行動の特性を類型化したものに過ぎなくて、大事なのは、その名前が独り歩きしてしまうことを防がなければならない。医学ラベルは、専門家がこの子たちをどうしていこうということの共通言語としてあったらいいんじゃないかと。あとは保護者によく申し上げているのは、親御さんたちは子供に対してどんな懸念を持っているのか、子供たちが自分が出来ないことに対してどんな懸念を持っているのか、この辛い状況を解決するってことに関しては異論はないですよねと。要はそこからスタート。
新倉:問題解決モデルからのスタートということですかね・・・
井上:診断は正直まだわかりませんと、いう子もいますよと。そして個性の範疇なのか診断の範疇なのかという質問をよくうけますが、僕は問題解決という立場からすればあんまり関係ないじゃないですかと、親御さんの心配や子供自身が苦しんでいるという現実があるのであれば、その問題を解決するための方法を一緒に考えましょうと。だからあえてなにか正常と障害の間のことをむりやり線を引かせるようなことを考えるまえに、親御さんも子供も上手にこの問題解決モデルに導いてあげるようにしています。でも、学校の先生方ってなかなかこの問題解決モデルに乗ってくれない可能性がありますよね。
新倉:そうですね・・・「この子はふつうなんですか、それとも特別扱いをしなければいけない発達障害なんですか?」と聞きにくる先生がいます。(笑)
井上:(笑)、そうそう、だからお父さんやお母さんたちには、そういうときには発達障害やADHDの病名を診断して、これこれこういう事情であるからして特別な配慮を要すると、そういうときだけは使いましょうと、そういう方便として診断名を使いましょうかと。やっぱりもっと深刻な、診断名に対する受け入れじゃなくて、子供が本当に困っていることを認めようとしないことの方が深刻ですよね。
新倉:いますよね・・・、そういう親御さん。手の独特な常道運動、アイコンタクトも合わない、学級の中でも自発的、能動的な関わりが授業中も対人関係でも持てない。疑い?というよりは専門家が見ればPDD、自閉傾向が強いお子さんだって直ぐにわかる感じです。でも、親御さんは、子供がどういう状態なのかということをあまり感知しないというか、認めたくないというスタンスのような気がします。お母さんと面接をしましたが、「うちの子は、作文は苦手だけれど学校は楽しいと言っています。担任の先生からは支援級を検討してみては?と勧められましたが考えていません」という頑な姿勢でした。
井上:ここも頑なな親御さんたち、そしてそのケースを支援する我々が陥ってはいけないは、やっぱりこう、困っていることを認めさせようとすること、それには拘っちゃいけないと思います。そこで親御さんと僕が初診で子供の強みを拾っていくのは、うちの子にはこんないいものがあるんだ、うちの子捨てたものじゃないだ、という感覚がないからこそ、あやふやだからこそ、困り感を認めにくかったり否認しようとしたりするところがあるので、親御さんの思っているこの子こういう所が好きなんですよねとか、ここ頑張れそうですよねというところを極力拾っていくということだと思うんですよね。あともうひとつは、やっぱりリミットとしての障害を認めさせようとするとこれ認めませんよね。それより、この子に5年後、10年後、どんな大人になって欲しいですか?と未来の鋳型みたいなものを一緒に探っていく。いや、うちは自分のことは自分でやれて飯が食っていければいいとか、いやいや大学へ行ってもらわなければとか色々出てきますよね。やっぱり未来予想図、未来の鋳型や理想や希望を親そして子供との双方で想像していくなかで、それを達成する上で何か心配なことがあればという風な文脈も出来ると思うんですよね。未来の鋳型を作ってみてそれを邪魔しかねないと、そうすると懸念として実は・・・と少し出てくるかもしれない。やっぱり現実的な、より現実的な鋳型をこっちも導きだす必要はありますよね。
新倉:ずっと通常級で中学まで行って将来高校へは進学して欲しいというステレオタイプな鋳型を描いている親が多いです。特別支援学級へ行くという鋳型は、まずありませんから。高学年になるまでずっと介入が見送られていた子供の親御さんと担任を交えて面接をして、通常級への中学進学はかなり本人にとって厳しいだろうし、本人にとってストレスや不安要素が沢山あるだろうという現実を共有しても、「これから気合いを入れさせますから」と(笑)。気合いを入れる云々の問題ではないわけで、本人はクラスの授業では完全に迷子状態。授業中の辛さ、退屈さ、諦め、自尊心の低下が増してしまっているので、まずはハードルを下げた学習が受けられるような環境は何かを検討してみてはどうか?それによってやり残している学習が可能になり本人が学習に取り組むプレッシャーも下がり、出来るという楽しみも味わえるのでは?という前向きな話だと思うのですが、やはり親御さんは、なんとかこのまま通常級で・・・という非現実的な鋳型を持っていたりします。そんな時、18歳になった○○君をちょっと想像してみて下さい、通常級を継続する選択をしたらどうなっているでしょうか?どこで何をしているでしょうか?他の選択をしたらどうなっているでしょうか?と投げかけます。
井上:学歴がいいことも、いい会社に入ることもいいことかもしれないけれど、大人になったときに何かやっぱりこうなって欲しいなと、幸せになっていくためにもう少し何かないですかね〜と別にいいですよ、それなりのレベルの学校に入って欲しいとか、いい会社に入って欲しいとかその理想はいいんですけど、その中でももうちょっとこう、形のないものでこの子に身につけて欲しいなと思うことは何ですか?と、少し内面的な部分を引き出していけるといいかなと。あくまで未来志向の相談ができるといいなと思うんですよね。逆に受け入れちゃって、うちの子は自閉症スペクトラムなんだと、じゃこれもあれもだめかしらと思っている人にも、そう悲観的になる前に、少なくともこの子がこんな風なことを頑張ってもらえればという所から始めませんか?ということも出来ると。やっぱり妥当で現実的な未来の鋳型を一緒に想像していく。その為のリソースとしては、いまここにあるこの子の強みだと思うんですよね。
新倉:そうですね、そこを共有化してスタートするスタンスでないと支援はしにくいのかなと。あと、私がもうひとつ思うのは、保護者の中に特別支援に対する偏見がまだ根強いのかなと。特別支援学級は"特別"な人が行くところであって、そこで実際にどんな教育が受けられるのか?どういうメリットがあるのか?という点に目を向けられる親御さんが少ないと感じます。小人数、教員も特別支援の専門の先生だから教え方や関わり方のノウハウを持っている。一度見学に行って、実際に見てから検討することも可能なのに、それ以前の段階でアレルギー反応的なものが出てしまう。そういう親御さんを説得することは到底できないので、やはり将来を具体的に考えて、どういう方向でやっていくのがこの子にとって一番いいのか?親御さんから見てどうですか?と投げかけます。実際、通常級では難しいのではないかと思われるケースに対して、先生は親御さんに医師の立場からどんな話をされるんですか?
井上:親御さんにとって、あくまで外から力がかかったような面接にならないことですよね。あくまで交通整理。いまの現状の環境において心配なこと、現在の環境においてもっとこうだったらな〜という部分だったり、まぁそんな中でいま支援学級への転学が話題になっているけれど、支援学級に対しての心配なことってありますよね。支援学級に対しての懸念と期待、子供に説明をするときもそうです。いまの学級に対する心配と支援学級へのメリットをだーと書いていきます。やっぱり一緒に迷ってあげることですね、どっちがいいのかと・・・
新倉:支援学級へ行くことを一方的に押すのではなくて、どっちへ行くと子供の学校生活や学習がより充実して面白くなるのかな?ということでしょうか。迷っている親御さんに対して一緒に迷ってあげることも大切だと思いますが、何年も迷っている親御さんは、迷った挙句、橋を渡らないことが多いですね。低学年の時からずっと迷って高学年になって中学のことを考えて転学申請を出して、見学へも行き、子供も体験授業も受けてすっかり転学する気でいたけれど、土壇場でその申請を取り消すとかありますもの。
井上:やっぱりここは気になるじゃないですか・・・とそこはやっぱりジョイニングが絶対に必要です。ジョイニングしながら一緒に迷ってあげる。やっぱりそこが苦しい所なんですよと、じゃないと、やっぱり親御さんの気持ちは楽にならと思います。まぁ、そこらへんジョイニングしながらさんざん迷って、でもやっぱりお母さんそろそろじゃないのってボーンと背中を押すこともあります(笑)。
新倉:なるほどね(笑)。それはさんざんジョイニングした結果として出来ることですね。
井上:何年生だからこうしなければならないとかルールは。僕はないと思っています。軽度知的障害があっても中学校までそのままいっちゃっている子もいます。ただグラウンドルールとして子供たちが学校へ行くのが苦しくなるということについてだけは、避けていこうということ。子供たちが学校へ行くメリットとデメリットを足して2で割ったときに、ゼロよりさがっちゃうようなことは避けようということを親御さんたちに共有していくことだと思います。どの時点でというルールはないと思いますが、やっぱり親御さんがお迷になるのは就学時と10歳前後ですね。
新倉:そうですね、保護者の相談は1〜2年生と4〜5年生の保護者が一番多いです。
井上:これやっぱり定型発達の子供の心の理論が急激に発達するところだと思うんですよね。それから何といっても中学への進学前ですよね。それでもひっぱっちゃって中学でも通常学級に入ってはみたけどなんてケースもあります。どの段階で決断されるのかということだと思うんですけど、逆に社会性や対人関係の問題があまりに大きすぎて人とかかわれないといったときの方が決断が早くなるような感じがします。
新倉:そうですね、お友達関係はうまくやれているけれど学習面で全然ついていけない場合が一番決めにくいようですね。友達と楽しくやれているメリットに重きを置いて、学習面は二の次だと思うようです。読み書きそろばんじゃないけれど、社会に出て困らない程度であれば高度な学習が出来なくてもいいという考え方もありますが、そのレベルでは、社会に出てからも君、十分に困るでしょという場合の判断が厄介ですね。
井上:かえすがえすこの学習障害だけでなく、学習が困難な子たちを拾っていくシステムというのは本当に難しいので、この子、学習は大変なんだけどそれで支援級っていうのはなんだかな〜と。
新倉:あ〜、やっぱり医師の視点からだとそうなのですね(笑)。学校側、教師の立場からするとそうではないですよ(笑)。5年生になって掛け算が出来ない、自分の名前すら漢字でかけない、お金の勘定が出来ない、これ以上通常級を続けてこの子にとっては何もいいことないじゃなかと。男子であれば、通常級の中学へそのまま進んでしまうと、小学校と違って専科だからフォローが入りにくいし、子供たちも精神的に成長するから、微妙にそういう子には距離を取り出す。周りに相手にされなくなって学校へ行くのがつまらなくなって不登校や、或いは、悪い仲間とつるんで非行や暴力事件を起こすのではないかという教師側の懸念があります。
井上:悪い想像しますよね。だからやっぱり子供たちには学校のメリットとデメリットを常に天秤にかけさせて、やっぱり辛くなりすぎる前に一緒に考えようねっていうことを常々考えるようにしています。あの、話はちょっと変わりますけれど、遠足いこうか迷っている、就学旅行へ行こうか迷っている。そういう行事に参加したくない場合には無理やり促すより、正直参加に対して抱いている期待と懸念をだぁーと書いていくとどっちの方が多そうかな?と。一点でも多いほうに従おうというルールにしていくことなのかなと。だから基本やっぱり親御さんや本人がそうだよね、と言う落としどころを一緒に探していくことですね。このフィールドの医療なんて、ほとんど医者っぽい仕事はないですね。
新倉:大笑。医者っぽい作業が少ないということですが、先生はそういう作業はやり甲斐がありますか?
井上:まぁ、やり甲斐という意味では勿論なんですけれど、終わりがない、いくら時間をかけても終わらないので、お医者さんっていうアイデンティティーにこだわっちゃうと多分このフィールドで働けないと思うんですよね。逆に僕はこのフィールドにいるということが前提で、その中でときどき医師としての資格を使う。処方箋をかくときとか診断書をかくときとかね。そういう立場なんだと考えることだと思うんですよね。白い巨塔にいることをアイデンティティーとしている人たちは、医療というところから外へ出て医者の資格持っているのに何をやっているの?と思うかもしれませんね。でも、僕は自分がやっぱりどこにいたいかってことでなんとなく今のフィールドにいるんだと思います。医学モデルっていのはまだ発展途上で専門家同士、研究者同士での共通言語としての医学モデルっていうのが中心であって、薬物療法する場合であったとしても医学モデルだけで考えるとどうもずっこけてしまう。子供自身がどこかに置いてきぼりくっちゃうというような偏った支援にならないほうがいいなと思っています。
新倉:その辺の全体性を見て支援をする、医学的なモデルにだけこだわってお仕事をしていらっしゃらないということですね。
井上:むしろ、僕らのフィールドだと一般小児科学という意味での医学モデルにはこだわったほうがいいので、やっぱり身体因のチェック。この子ADHDってふれこみだけれど本当かな?この子4年生になってからこんな症状が出るなんてなんかおかしいぞって神経所見をとってみるとか、甲状腺ホルモンを測ってみるとか、身体因をしっかりルールアウトしてあげるって誰かが最後にここをしっかりルールアウトするという仕事をしないと、一見発達障害、一見精神障害っていう子たちを重大な見逃しをしてしまうことになるので。実は僕らのすごくまれだけれど重要な仕事っていうのは身体因を見逃さない。そういう意味では体を預かるという感覚なのかなと。
新倉:それはまさにお医者さんでなければ出来ない仕事ですものね。触れ込みに惑わされずにしっかりと身体因をルールアウトしていく、それがクリアーになった時点で、さきほどの井上先生の子供たちへの支援がはじまるわけですね。本日は色々と貴重なお話しをありがとうございました。
井上:ありがとうございました。