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カウンセラーの対談「第41回 藤田博史氏、新倉カウンセラー対談 <第1回>」
第41回 藤田博史氏、新倉カウンセラー対談 <第1回>
藤田博史氏(ふじたひろし)プロフィール
医療法人ユーロクリニーク理事長・院長。
フランスの精神分析に精通し、特にジャック・ラカンの精神分析理論に関する研究では日本の第一人者。また、日本のへき地・離島医療にも造詣が深く、東京都小笠原村診療所、母島診療所、利島村診療所非常勤医師および東京都御蔵島村診療所長を務め、約10年間に渡りへき地・離島医療に従事。
2001年から2002年まで早稲田奉仕園および東京芸術劇場で一般公開セミネール「人形の身体論ーその精神分析的考察」、2003年から2011年まで日仏会館で一般公開セミネール「心的構造論ー精神病の精神分析的治療理論」、2012年から「治療技法論ーラカン理論に基づく治療技法の実際」、2013年から「精神分析の未来形ー厳密なサイエンスとしての可能性を探る」、2014年から「海馬症候群ー量子力学と精神分析の甘美な関係」、2015年から「オールフラット理論ーホログラフィック精神分析入門」、2016年から「精神分析原理 Principia Psychoanalytica ーフロイト・ラカンが仕掛けた陥穽」を主催。2003年に新宿ゴールデン街に「精神分析的実験バー CREMASTER」を設立し、毎週木曜夜には「フジタゼミ」がおこなわれている。なお身体的特徴として内臓逆位であることを自ら公表している。
インタビュー第1回
新倉カウンセラー(以下新倉):こんばんは。本日は精神分析医であり、また美容外科医でいらっしゃる藤田博史先生をお招きして精神分析について色々とお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
藤田先生(以下藤田):よろしくお願いします。
新倉:去年の夏に仲間と共著で出版した「吉福伸逸の言葉」を藤田先生のゼミでレクチャーさせていただいて、それがご縁で今日の対談のお話をしたところ、快諾してくださって本当にありがたく思っております。ここのカウンセラーは、私をはじめ皆あまり精神分析には詳しくないので色々と教えていただく形で進めて行きたいと思っています。
まず、心理療法の3つの勢力として、フロイト・ユングの精神分析、行動主義、そしてロジャーズやマズローの人間性心理学があります。その後も色々な心理療法が出てきて、トランスパーソナル、認知行動療法、最近ではオープンダイアローグとか様々な流れがあります。先生が医学部を出られて精神分析をやられようと思われたきっかけを教えていただけますか?
藤田:きっかけは、まずフロイトを読み始めたのが中学二年生の時なんですよね。近くに雑誌くらいしか置いていないような本屋さんがあって、フロイト著作集を注文したのがきっかけです。これを読んだら人間のことが全部解るぞって思ったんですね。勿論、日本語で。でもね、野球の部活をやっていて、家に帰ってきてもうくたくただから風呂も入らないで、ベッドへ入ってそこで開くわけですよ。そうするとだいたい2ページくらいで寝ちゃうんです。
新倉:良い睡眠導入ですね(笑)。
藤田:だから『精神分析入門』は最初の4ページくらいはすごく詳しいですよ(笑)。それで何だか人の心って思っていたのと全然違うんだなっていうことが分かってきた。
新倉:その全然違うというのは、初めはどう思っていたのですか?
藤田:例えば、言い間違いなどは、偶然かと思っていたのですが、ちゃんと原因があるということをフロイトが指摘していたのでそれは面白いと思ったんです。
新倉:その辺の興味がのちに医学部へ行き精神分析に辿りついたところですか?その当時の精神分析ってどうだったのですかね?
藤田:人文書院の「フロイト著作集」が出始めていた頃で、それよりずっと前に出ていた日本教文社の「フロイド選集」は、小ぶりな本で17巻もあるんですが、それが日本のフロイト研究の定番本でした。当時の私は中学生でしたから、周りにフロイトを読む人もいなかったので、ひとりで密かに学ぶ楽しみがありました。とても新鮮でした。それに反抗期が重なっていたので、父親の言動を分析的に批判したりして、今考えると赤面してしまいますが、自分なりの勝手な解釈で反抗をしていたのだと思います。父が怒っているのは、恐らくこういう理由だろうとか。ですから口論になったときに父はよく「お前はフロイト読み始めてからおかしくなった」と愚痴をこぼしていました。今思えば、父の言い分が正しかったと思います(笑)。
新倉:お父さんの方に軍配があがるわけですね(笑)。
藤田:そうですね。確かにフロイトを読み始めてある意味おかしくなったのでしょうね(笑)。
新倉:そもそも精神分析って、先生がお考えになる精神分析って何ですか?
藤田:私は中学生の時からフロイディアンでしたからフロイトの考え方に忠実だったと思います。特に二つの局所論、つまり第一の局所論では、「意識」「無意識」「前意識」という三つの審級を区別しますし、第二の局所論では「自我」「超自我」「エス」という峻別を導入するわけですけど、やはりその局所論に基づく思考法が長いこと自分の精神分析的な見方の基本になっていたんだなと思います。これは仮説だから、実態があるわけではありませんが、第一の局所論で言えば力動的な経済論という趣ですし、第二の局所論では擬人化された相互関係が人の心を考える際に基本になっていましたね。そうこうしているうちに信州大学医学部の一年生のときに運命的な出遭いがあったんです。それが当時精神医学教室の助教授を務めておられた新海安彦先生との出遭いでした。新海先生は自然科学講義と題する授業で、否応なしに膨大な量のドイツ語とフランス語の原書を私たち無学な学生に読ませたんです。
新倉:学生に?すごいですね。
藤田:で、それで鍛えられて。試験がことごとく難しくてみんな点数が取れないんですが、私は偶然にも90点位採ってしまったものだから、先生に呼ばれて、それから新海先生と懇意にさせて頂くようになりました。今でも心から感謝しています。フロイトのドイツ語の全集『Gesammelte Werke』を原書で読めるようになったのも新海先生のお陰です。
新倉:なるほどね、では具体的な精神分析の治療についてちょっとお伺いしたいのですが?
藤田:これは新倉さんの方が得意なんじゃないですか?
新倉:いやいや、私が大学・院で勉強した精神分析は、治療法の基礎です。例えばフリーアソシエーション、日本語で言うと自由連想かな、カウチがあって、クライアントがそこにいて、分析医がクラインとの自由連想につきあいながら治療を行うというぐらいの知識やイメージしかありません(笑)。先生は、具体的にどういう治療をされているのですか?
藤田:自由連想は、フロイトが催眠療法に挫折してその後に考え出した技法ですよね。
新倉:えっ、それは知りませんでした!(驚)
藤田:フロイトがパリに留学していたときに、サルペトリエール病院の神経科医シャルコーの演習を見て、催眠が人間の無意識の中に入っていけるひとつの方法だと思ったのですね。で、やってはみたら、かかる人とかからない人がいて非常にばらつきがあって、これはもう科学的な方法としては使えないと考えたんですね。そこで催眠によるアプローチを断念して考え出したのが自由連想法だったというわけです。自由連想法というのは、頭に浮かんだことをすべて隠さずに口に出してください、という治療契約の下に進めてゆく技法なのですね。現代ではフロイトのように寝椅子に横になって分析をおこなう人は少なくなってきましたけれど、このような独創的な思索の人であるフロイトに憧れて精神分析に興味を持つという人は多いですね。精神分析に憧れるというよりも、フロイトの生き様がカッコイイので憧れる人も多いです。アーネスト・ジョーンズの『フロイトの生涯』という伝記がありますが、写真もカッコイイし、生き様も心惹かれる。晩年は上顎洞癌で何度も手術をしたのですが、モルヒネを使って頭が麻痺するぐらいだったら使わない方がいいと言い放って、激痛に耐えながら最後まで論文を書いていました。わたし自身を振り返ってみても、思春期にその生き様に感動し、フロイトへの同一化が起こったのでしょうね。そのあとにフロイトの思想の理解が続いたわけです。ですから精神分析に惹かれたというよりは、正直なところフロイトの生き様に惹かれたんですね。おそらく一番目の弟子たち、フェレンツィやユングもそうです。私もまず最初にフロイトの生き様とか語り口に惹かれたんですね、そしてその後に理屈が着いてきた。
新倉:そうですか。先生ご自身は自由連想を使って治療されているのですか?
藤田:やっていた時期はすごく短いです。分析用のカウチと立派なデスクとエジプトの小物が置いてあるようなフロイトの分析室の光景に憧れていたので、できもしないのにマネをしたりしました。(笑)
新倉:このオフィスも実は最初にオープンしたとき麻布十番にあったのですが、ある部屋にあの手のカウチを入れたのですが、大批判にあって撤収したという話があります。
藤田:えっ、それはどうしてですか?
新倉:何といいますか、クライアントさんにとっては馴染みがなかったのだと思います。ソファーは座るものじゃないですか、あれはちょっとベッドみたいな感じですよね。だから、クライアントさん自身がその部屋に通されたときに、居心地が悪いとか落ち着かなかったみたい。で、結局3ケ月くらいで普通のソファーに入れ替えたというエピソードがあります。
藤田:もしかしたらカウチに横になっておこなう自由連想法は日本人には合わないのかもしれませんね。欠点も少なからずある。
新倉:例えば、どのような所が欠点だと思われますか?
藤田:大前提の「頭に浮かんだことをすべて隠さずに口に出してください」という陳述はよくよく考えたらひとつの命令なんですね。つまり自由連想法という名称とは裏腹に自由じゃないんですよね。もうその時点でひとつの要請とか命令が働いている。要するに「不自由な自由連想」になっている。その枠内で連想してくださいといわれても、その言葉に縛られて逆に身動きができなくなる。いま、おっしゃったカウチがブーイングだっていうのとどこかで繋がっているのかもしれません。懺悔の習慣のある欧米人には適していても、日本人には適さないのかもしれない。
新倉:はい、そういう事柄は色々ありますね。
藤田:日本家屋の構造とか狭いマンションの一室とか、日本的、二項的な親密さを引き起こしてしまう空間は、分析が始まるその手前で、余計な感情が湧いてしまったり、息苦しい空気が生じてしまうのかもしれません。ですから、自由連想でカウチに横になってというのは馴染まない。ですから、わたしはフランスではカウチでしたが、日本では椅子に座って九十度の角度で対面する方法を取り入れています。この方法の欠点は姿勢を保つのにどうしても体に力が入るのでフロイトが最初に意図した、全身の力を抜くということができなくなっています。
新倉:それがカウチの目的だったのですね。これも知りませんでした。
藤田:そうですね、だから対面法でこういう風に自由に会話するのだけれど、表面上の会話とその一段下の会話とまたもうちょっと下の会話が同時に、人間のメッセージというのはポリフォニー(多音)でありポリセミー(多意味)でもあるわけですから、私自身はそれを察知する方法へと次第に変わってゆきました。
新倉:自由連想をするのではなくて、表面的な会話内容のひとつ下の層、そしてまたひとつ下の層をキャッチする。要するに治療者である先生がその複数の層を受けて、それに対してどういう形で治療していくのですか?
藤田:会話の中でクライアントがメッセージを出しているわけですね。しゃべっている字面字どおりの意味もあるわけですが、それとは別に、例えば「助けて、助けて」というアナグラムが盛り込まれていたりとか、特定の固有名詞が会話の中に織り込まれていたりとか、録音して逆回転させるとメッセージになっている「リバース・スピーチ」など、様々な形で人の会話は重層化されています。我々はこうやって時間の流れに沿ってひとつのことについて話していると思っているけれど、脳の記憶のレベルでは直線的な時間は流れていないんですね。つまりすべての情報が同時に存在している。それを意識が時間に沿って小出しにしているわけです。トイレットペーパーを引き出すみたいに。記憶は情報でありもともとは塊なんです。でも引き出すときは時間軸に沿って引き出さなければならない。それじゃ、逆に引き出す前の情報をできる限りそのままの形で察知する方法はないかと考えるわけです。たとえば、その昔、意図的にビートルズや実験的な音楽グループが試みた「リバース・スピーチ」もそのような方法のひとつです。そしてこのような「リバース・スピーチ」は我々の日常会話の中にも含まれています。ですから、それを察知するためには分析家はどのような心的ポジションを取る必要があるのか、というのがわたしがゼミネールなどでお話をしているテーマの一つになっています。それは「オール・フラット」という心的なポジションのあり方なのですが、その基本はすべての情報は二次平面だというところにあります。二次元情報を我々は時空化しているという考え方ですね。だから時空化したものが一つのメッセージ、つまりポリフォニー(多重の音)になっているし、ポリセミー(多重の意味)になっている。つまりキャッチする側の心が具体的な立体ではなく情報の平面でないとダメなんです。余計な先入観があってもダメだし、色がついていてもダメ。つまり様々なクオリティを全部取り去って、基本的な情報だけをキャッチするような、写真の乾板、写真のフィルムっていうのかな、そういう状態でいると向こうから飛んできたメッセージが二次元情報に変換される。
新倉:そうすると、普段の生活って3Dの中で行われていると思うのですが、先生自身もそうだと思うのですが、治療をする際は、先生は二次元へスイッチを入れ替えるというか、そういう要素が必要になってくるということですか?
藤田:そうなんです。ですから切り替えスイッチがある感じです。
新倉:なんだかドラえもんの世界みたいじゃないですか(笑)。
藤田:日常生活のなかでそのようなモノクロームでぺったんこで、味も素っ気もないような状況のなかでしか生きられなくなったら、離人症とか統合失調症とかそういう世界になってしまうけれど、それを切り替えるスイッチがあるところが「オールフラット理論」の特徴なんです。ですから治療の現場では、オールフラットのスイッチをオンにして、クライアントの言葉だけじゃなく、全体的な空気、体の動きとか、目の動きとか、表情筋の動きとか、脚の動きとかそういう情報をできる限りキャッチします。
新倉:あら、じゃ、私いまちょっとまずい状況にいるのかもしれませんね。先生、今、3Dにしておいてくださいね。(笑)こわい、こわい!
藤田:大笑
新倉:先生の著書『精神病の構造』を読ませていただきましたが、先生がこれを書かれたのは30代ですよね。
藤田:34歳で出版したので書き始めたのは32歳くらいです。
新倉:私にはちょっと高度過ぎて分からないところがたくさんありました(笑)。その中でいまの精神分析に関してなんですけれど、引用ですが「一時的な言語活動の結節的としての意味を手繰る作業こそ精神分析医の仕事である。」と。
藤田:自由連想のときもそうですよね。たとえば何か一つのことが浮かんでくる、そうすると芋づる式につながって記憶が想起されてくる。ラカン派ではシニフィアンの連鎖(chaîne signifiante)と呼んでいますね。シニフィアンの連鎖を辿ってゆくわけです
新倉:先ほどの、いくつかの意味を捉えるっていうことですけれど、カウンセリングでもそうなのですけれど、吉福さんの本でも触れていますけれど、クライアントの「コンテンツ」にはあまり重きを置かない。それよりは、その背後にあるもの、つまり「コンテクスト」背景の部分がどうなっているのかに重きをおいてやりなさいと私は習いましたけれど、その辺は精神分析と似ている部分なのかと。
藤田:吉福先生、あっ、先生っていうとおこられちゃうか、私の中では先生なんですけれどね(笑)。吉福さんの考え方と似ているんですよね。今回、新倉さんの出された本を読むにあたって昔のイマーゴを引っ張り出してきて読んだりしたのですけれど、表現形は違いますけれど思考法は似ていますね。私の場合は、構造主義みたいなものがあったけれど、吉福さんはすごく直感的な方法で人の心に対する様々なセラピーを考えているけれど、何か似ているんですよね。あっ、これは自分が発想したものだなと。それは、やっぱりいまおっしゃった、その人が言っているコンテンツというのはあんまり重要ではなくて、むしろその語り口とか、抑揚とかそういうものにその人の心の状態があらわれていると思うんですよね。『精神病の構造』の中にも書きましたけれど、デカルトの『方法序説』をひっくり返して「序説方法」が重要なんです。人間にとって大事なのは序説のし方、語り方なんです。語っている内容よりも、語り口の方がその人の心のポジションを把握できる。だけど、ふつうは目先の意味に振り回されますよね。
新倉:割とそういう方が多いですよね。
藤田:悲しい話しをされて、悲しいって言っているけれど、よく見ると涙が出ていない方とかいますよね。だからその本人すら気がついていないようなバックグラウンドとかあるいはもう少し底の方とか、そういう所をサーチする能力が重要なんですね。そういう意味では、吉福さんと私がやってきたことは似ているのかなと。
新倉:そうですね、その辺は重なりますね。先生の本に、所謂、発症するというか精神疾患を発病する、これ統合失調症のことを言っているのだと思うんですけれど、「構造的な基本契機は原抑制の解除」とあります。原抑圧とは?その解除とは?その辺りを教えていただけますか?
(つづく)